職場の先輩が「俺、幽霊が見える。」という謎のマウントをかましてきた話。

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 社会人になってしまった。精神年齢はワンピースを読んでワクワクしていたあの頃と何ら変わらないのに。あー。変に年齢と肩書だけが積み重なっていく。あの頃は『生きてるだけでウチら、めっちゃ最強じゃん』のJKパワーが眩しかった彼女たちも、今はどこかで3歳児を自転車に乗せて爆走したり、淡々と事務作業をしたり、訳の分からない不倫を楽しんでたりするのだろうか。

 さて、社会人というのは『ルーティン』の退屈さと『理不尽』への忍耐力をどのようにして凌ぐか、或いは解消するかにかかっていると自分は思う。人によって仕事の向き合い方は異なると思うのだが、結局は退屈さと忍耐力をうまく手なずけた者が地位や名誉に関係なく、勝者となるのではないだろうか。そういう意味で僕は、ここ数か月間、割と敗者の社会人生活を送っている。

 

 最近新しい配属先で、先輩が出来た。10個離れた先輩だ。髪質が驚きの無造作ヘアーで、その豊富な経験から色々なアドバイスをくれる。「これは、こうすべきだ。」「あれは、ああすべきだ。」髪質が流れるような無造作ヘアーなことを除けば10個も上の先輩。僕もアドバイスに一礼するくらいの良識は弁えているつもりなので「ありがとうございます。」と丁寧に返す。出来る男である。

 しかし、そんな先輩の大きな背中は、日が経つにつれ張りぼてであったことが判明していく。業務上のミス。これは人間だから仕方がないことだ。僕もする。いや、めちゃくちゃする。笑ってしまうくらいする。けれど先輩は、そのミスに「いや、実はこれね……」「いやいや、これはね……」と言い訳を重ねていったのだ。しかもそれが少し調べれば嘘だと分かるような言い訳ばかり。これによって『ミス』+『嘘』という地獄の方程式を作り上げてしまった。これが世に言う、信用度なくなっちゃうよねの法則である。

 そうなると、今までの先輩のアドバイスも振り返れば「?」となるようなものばかり。新入社員(しかも若い女子社員)と比べて「○○さんはいいけど君は……」と僕のできない加減をなじる『比較ハラスメント』。若い女子社員には口調も変えて優しくアドバイスを施す『いやどれだけ優しく諭しても心のチンコ丸出しですけどハラスメント』、若い女性だとわかれば優しく接する『いやスタンドみたいに心のチンコのビジョン背後霊みたいに現われてますけどねハラスメント』、シンプルに大きい声で怒る『電車乗ってるときに緊張感が走るおじさんと同じ法則でしか自分の意見を述べられないんですかハラスメント』、あの社員全然できないよねみたいなことをのたまう『自分のことは棚にあげて言うのマジで、いや、これはマジでやめてた方がいいと思うんですけどハラスメント』、無造作な髪による『髪の毛ハラスメント』など、あげればきりがない。

 どれだけ忍耐力が大切だと言われている社会人でも、やはり信頼できない人からのハラスメントほどきついものは無く、そこにルーティンも加わると地獄の様相。Yeah! めっちゃヘルディ、ウキウキな無造作ヘアーである。ウキウキなのは先輩のみだが。

 

 で、アドバイスだと思って鵜呑みにしてた先輩からの言葉たちも、よくよく考えなおしてみると、「あれ、これ、ただのマウントじゃない?」と疑惑が。例えば「俺が若い頃はこうしてて」みたいなのも結局自分がどれだけ頑張ってたかみたいな話だし、「俺、甘いもの食べないやつで」みたいなのも結局自分のストイックさの誇示でしかない。しかも嘘を吐く。息をするように吐く。そして無造作。

 でも、そうは言っても先輩。やっぱり立てるところは立てなきゃなあ、なんて思っていた僕に、その日が訪れた。

 例のXデー。それは雨が降っていて、職場の雰囲気も全体的に重い一日だった。低気圧が苦手な人なら分かるかもしれないが、そういうめぐりあわせのピリピリ感などは肌で感じられる。と、いつものように仕事をこなす僕に、無造作先輩からお声がけが。

「○○ってどうなってるんだったっけ?」

 ○○というのは僕がメインで進行している業務のことである。しかし、締め切りはもう少し後でもいいという会議の取り決めから、後回しにしていた。それを説明する僕の様子がよくなかったのだろうか、先輩は不機嫌な声でこう伝えた。

「もういい」

 完全に怒っている無造作。終業後、できる社会人の僕は、できる社会人なので先輩の元へ謝りに行く。そうすると「いいよいいよ」と笑う先輩。近くに上司がいるからなのだが、できる社会人なので、そんなことはいちいち言わない。ブログには書いちゃったが。そして、そこからいつものようにアドバイスと言う名のマウントをかましてくる先輩。僕が話半分で聴いていると、いよいよ先輩から聞き流せない驚きの言葉が、あの言葉が鼓膜に飛び込んでいたのだった。

「いや、っていうかさあ、俺、幽霊見えるんだよね」

 その瞬間である。僕の全身と言う全身の細胞から指令が渡った。「ああ!!この人、まともに接したら駄目なタイプの人だったんだ!」と。びっくりした。いや、もうマジでびっくりしちゃった。嘘だろ、10個離れてる人間に幽霊が見えるってマウントを言う?それでマウントがとれると思ってる……の?いや、おもってるから……いうのか。今までのは仕事とか人間性のマウントだから分かる。分かるが、その、幽霊が見えるって、その、あの、なんていうかマジで何のマウント?スピリチュアル面でも、後輩を圧倒しようと思ったの?それで、凌駕しようと思ったの?40代が30代に対して?嘘だろ。嘘って言ってくれよ!!幽霊マウントは、ないって!こんなん地獄のミサワの世界観じゃん!「俺、幽霊見えるんだよね」地獄のミサワのあの絵が言うやつじゃん!そして無造作!無造作ヘアー!え、ひょっとして、その無造作は鬼太郎のオマージュ?父さん妖気ですのオマージュとして髪を逆立てまくってた?今までの嘘とかも伏線?実は幽霊が見えていたことの伏線だったのかな。嘘という言霊が障壁を生み出してなんちゃらかんちゃらみたいな。背後霊みたいに見えていた心のチンコも、本当にそういうジョジョのスタンド的な意味合いで出現してた?っていうか幽霊見えることとかを言うことによって後輩が「ええー!すげえ!」って驚くビジョンが見えてたのが凄い。今驚いてるけど、意味合いは全く逆ですからね。なんだろう、これまでのこの人の人生でこのかましをしたことで「すげえええ」ってなったことがあるってことなのか。ここが初顔だしのエピソードではないのか。この年になるまでに、そのエピソードを言って相手にマウントはかませないよって矯正してくれる相手もいなかったのだろうか。40代。無造作。幽霊が見える。幽霊が、見える……。

 

 でも不思議なもので、それからは先輩がどれだけ訳の分からないことを言っても「この人後輩に幽霊見えるってかましてくる人だもんな」と、まともに相手をしなくなった。

 幽霊が見える、なんて理不尽、社会人のマナーとか仕事の啓発本とかにも載ってないだろ。忍耐の日々、そして敗者の日々である。

 

 

『Star!!』『恋は渾沌の隷也』『花ハ踊レヤいろはにほ』『PUNCH☆MIND☆HAPPINESS』の作曲者が同一人物という受け入れがたい事実

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 普段アニメを見ない人間が主題歌、いわゆるアニソンのみを嗜むこと程「ラグジュアリー」なことはない。ラグジュアリーとは「贅沢」の意味だ。アニメの内容を知らないが主題歌だけ好きなんて状況は純粋なアニメ好きからすればなんと腹立たしいことだろう。例えるならスイカの先端、一番甘い部分だけを齧ってあとは残すようなものだ。しかし、事実としてスイカの先端は極上のスイーツだし、自分の感性に当てはまったアニソンは極上のトリップを脳内に送り届けてくれる。思うに、エンターテイメントは多少罪悪感が合った方が、よりよいスパイスになるのかもしれない。

 そんな、アニメにそこまで造詣がなくて、けれど時々ストライクゾーンにはまるアニソンをヘビーローテーションしてしまうような自分が『合法的トビ方ノススメ』と言わんばかりにトリップ出来るアニソンを紹介したいと今回は思っている。

 

 ……という趣の記事を本来なら書こうと当初は考えていた。

 ところが。この記事を書くために自分が好きなアニソンを並べ、いざ詳細をネットで調べてみると、ひとつの事実が浮かび上がって来た。「作曲者が同一人物?」そう、これから挙げるアニソンについてまず確認しておきたいのは、自分はこの人物のことを最近まで知らなかったことである。後述する四曲について、それぞれを、それぞれの経緯で知り、それぞれ独立して楽しく拝聴していた作品たちであるということを踏まえてほしい。

 なんかいいなあと思っていた漫画2冊が同作者という経験はないだろうか。自分の経験で言えば幽遊白書とHUNTER×HUNTERがその例である。そんな作品が四。四である。全ては一人の天才のディレクションの元に誕生していたというのだ。推理小説だろうか。叙述トリックだろうか。天は二物どころか三、四物くらい分け与えてしまっているではないか。彼の掌の上で自分は完全に転がされていたのである。ただ叙述トリックでは絶対ない。

 その天才の名は『田中秀和』。今回の記事は彼の作ったアニソンを知ってもらうためだけの記事である。あと、当記事では、ゆゆうたのことについては一切触れないのでお知りおきを。

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槇原敬之『どんなときも。』の仄かな暗さと確かな歌詞

 

 

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あえて敬称略で書かせて貰う。槇原敬之は凄い。本当に凄い。洋楽のキング・オブ・ポップマイケル・ジャクソンだとすれば、日本でのキング・オブ・ポップの称号は槇原敬之に決定で良いと思う。それほどに、槇原敬之は過小評価されているし、あの立ち位置で今も戦い続けている姿勢に僕は心を奪われ続ける。

槇原敬之の素晴らしさは「歌声」も「メロディ」も外せないが、その幹に「歌詞の言葉」というものがある。「歌声」や「メロディ」で何十年と親しまれてきた人たちはいたが、「歌詞」の音楽性で戦い続けてきたのは日本で言えば松任谷由実くらいなのではないだろうか。

例えばSMAPに楽曲提供された名曲「世界に一つだけの花」は未だに諸学校などで歌われ続ける普遍的なメッセージ性を伴っているし、「もう恋なんてしない」はリリースから何十年と経った今でも恋人を失った気持ちを細やかな情景描写を織り交ぜながら歌うことによって失恋曲の代表曲として挙がる。

言葉を歌い続けるという意味で、未だに第一線を貼っている彼について、僕は化物だと思う。 

 

 

PENGUIN

PENGUIN

  • provided courtesy of iTunes

製鉄所のコンビナートは 赤と白の市松模様

君に見せるつもりだった ロケットの模型と同じで

もう君にも 見せることもないし この道も二人じゃ通らない

話もして キスもしたけど 出会わなかった二人

槇原敬之『PENGUIN』の歌いだし。もはや、歌詞が『文学』。『製鉄所のコンビナート』から『赤と白の市松模様』なんて比喩表現に繋げてるってどんなセンスをしているのか。二行目の『君に見せるつもりだった ロケットの模型と同じで』がラブソングという点では少し共感からはみ出ているのも強烈。

 

 

手をつないで帰ろ

手をつないで帰ろ

  • 槇原 敬之
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

君はナポレオンフィッシュ

水槽にへばりついて

何度呼んでも 降り返ってくれない 

槇原敬之『手をつないで帰ろ』は冒頭の『ナポレオンフィッシュ』という強烈な単語から始まり、その後に描かれるのは水槽にへばりつく何度読んでも振り返らない恋人の存在。

ほかの女の子に

ちょっと見とれてただけなのに

「ちょっとじゃないよ」って言うために

一回振り返っただけ 

特に90年代に作られた珠玉のラブソングたちは掌編小説と言ってもおかしくない。

なぁ こっちむいてーな

なぁ 機嫌なおしてーな

僕らの日曜日は夏休みほど長くない 

関西弁と、『僕らの日曜日は夏休みほど長くない』ここの歌詞が完璧すぎる。

 

 

そんな槇原敬之の代表曲と言えば『どんなときも。』。応援ソングとして圧倒的な地位を確立しているが、その歌詞の、そこはかとない仄かな暗さを、ご存知だろうか。

どんなときもどんなときも

僕が僕らしくあるために

「好きなものは好き!」と

言えるきもち抱きしめてたい

この歌詞を是非注目して戴きたい。言えるきもちを「抱きしめる」のではなく、まして「話す」でもなく、「抱きしめていたい」。そう、「いたい」と歌うのである。

かつて、この楽曲が発売された時代はいわゆる『愛は勝つ』や『それが大事』など応援ソングが流行していた時代であり、『どんなときも。』も、その流れの中でヒットした楽曲であることは間違いないのだが、応援歌にしては歌詞に登場する言葉に自信が、あまり無さそうだ。

『絶対』や『必ず』や『四六時中』ではなく『どんなときも』と二回繰り返す。自分に言い聞かせているような様子すら感じられる。

 

心配ないからね 君の想いが

誰かに届く 明日がきっとある

KAN『愛は勝つ』の歌いだし

負けないこと

投げ出さないこと

逃げださないこと

信じぬくこと

大事MANブラザーズバンド『それが大事』の歌いだし。

僕の背中は自分が思うより正直かい? 

そして『どんなときも。』の歌いだし。スタートが負極。正直かい?とクエスチョンマークで聞く自信の無さ。応援歌としては少し異端である。

 

誰かに聞かなきゃ不安になってしまうよ 

『どんなときも。』は更に、このような歌詞で続く。未だ負極の中。応援歌で自ら『不安になってしまう』って言うことの凄み。応援歌の引き出しには似つかわしくない単語ばかりが並ぶ。

あの泥だらけのスニーカーじゃおいこせないのは

電車でも時間でもなく 僕かもしれないけど 

もしもほかの誰かを知らずに傷つけても

絶対譲れない夢が僕にはあるよ

ビルの間窮屈そうに 

ちてゆく夕陽に 焦る気持ちとかしていこう 

こう並べると、歌詞の仄かな暗さが際立つ。しかし、この『どんなときも。』は今でも愛される応援歌。人は、なぜこの、苦みの伴う言葉に励まされ続けるのだろう。ここに僕は歌詞という音楽性で未だ第一線を槇原敬之が貼り続ける理由があると思うのだ。

 

かつて同時期に流行った歌詞たちは、力強い言葉で聴く者たちを奮い立たせた。もちろんそれは時流の一つであり、未だ応援歌として一定の地位を築きあげている理由に他ならない。しかし中には強すぎる言葉が「自分には合わない」「少し違う」と思う人たちもいたのではないだろうか。

そこに来て、この「どんなときも。」の、仄かな暗さ、後ろ向きの歌詞は応援歌として『上』からではなく、同じ目線に、あえて立って励ますような、身近さがあったのではないか。大袈裟に飾った言葉ではなく、少し真実に近い情景にこそ、人は励まされる。本当に自分のこと、或いは自分に似た誰かのことを歌い続けている、そんな共感が、この曲をヒットに導いたのだと僕は思う。

 

ポップスという音楽は、特に日常との親和性が高い。まるで自分たちの生活の中で息をするように存在する音楽たちだ。その中で槇原敬之の歌詞は、生活の一部を切り取るような言葉の選択が多く、まるで生活に根付くように僕たちに寄り添う。

しかし、それと同時に、切り取った風景を綺麗な額縁に飾るのも、槇原敬之の歌詞が巧みな部分だ。聞いた者の耳に残るフレーズや表現技法でポップスを主張の強いものたちに変える。『どんなときも』というフレーズを二回繰り返したり、『もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対』という否定をまた否定する強烈さなど、挙げればきりがない。

そこには、ポップスの名手としての、槇原敬之の確かな歌詞の力が存在しているに違いない。

 

 

槇原敬之1966 QUARTET×槇原敬之「Abbey Road Sonata」対談 (4/5) - 音楽ナタリー 特集・インタビューでこのように語っている。

詞は書く時間はつらくてつらくて……!

(中略)

めちゃくちゃしんどいよ、もう本当に。半泣きですよいつも。

(中略)

いや、好きですけど。鍛錬する苦しみとはまた違って、自分の中で混乱してくるんですよね。自分の欲と、書きたいこととがすごくせめぎ合うんですよ。欲というのは、「『この詞の表現いいですね』って言われたい」みたいな気持ちもあるし

 

市民の視点に立って、苦しみながらも、描かれ続ける歌詞。

そこには、決しておごり高ぶらない、ポップスの王としての姿が垣間見れるのだ。