槇原敬之の『pool』の歌詞、「案外違う名字になっていたりして」の殺傷力と切なさの想起について。
ずっと他人事のように感じていた「結婚」という言葉も31になればいよいよ他人事ではない。しかも昔恋した相手が別の男性と結ばれて名字を代えるというのだから、まあ、女々しいのは重々承知ながら「おめでとう」より「うわあ、いよいよドラマとか漫画でみたヤツだあ…」という気持ちが凄い。式に呼ばれた時はどういう顔をすれば良いのだろう。「笑えば良いと思うよ」か、綾波のごとく。だって人づてに聞いたプロフィール、僕より結婚相手さんの方が上回っているもんなあ。
と、まあ何年も前の恋をウジウジ語るような私だが、こういった男の弱い部分を武器にして90年代一世風靡したシンガーソングライターがいる。そう、槇原敬之だ。
歌唱力、キャッチなメロディ、どれもマッキーを語る上で外せない要素なのだが注目したいのは「歌詞」。メロディを先に作ってから歌詞を当てはめていくというスタイルが多い中、この人は「詩先」という歌詞→メロディという手法で曲を作ってる。それだけ「歌詞」というものにこだわりがあるということだろう。加えて90年代の頃に発売した楽曲は、どれも男の心象風景を歌っている(特に弱い部分を書かせたら右に出る者はいないくらい)ものだから本当に私小説を読んでいるかのような気持ちになる。マッキーの歌には「物語性」があるのだ。
例えばスマッシュヒットをした「SPY」
だけど 信じてる 信じてる
が印象的な歌。
歌の内容を要約すると「街で偶然見かけた恋人をSPYみたいに追いかけてたら、知らない男と出会ってキスしてて、うわあ」という内容。(内容を見ただけでもよく、この設定で1曲書こうと考えたなあ、と思う)
この曲、2番のサビが凄い。↑で書いた箇所に呼応するのだが
しゃれになんないよ なんないよ
と続く。
この「しゃれになんないよ」というフレーズ!そして「なんないよ」のリフレイン!
男の絶望感と、まぬけさを一度に説明している絶品なフレーズだと思う。こそこそ隠れながら「しゃれになんないよ」ですからね。「なーんないよ」ですから。しかも1番で「信じてる」と歌っている部分に「しゃれになんないよ」を当てはめる意地悪さ!
最後のサビでは
両腕がじんと熱くなる位 抱きしめた強さ
君の身体に アザのように残ればいい
そしていつか思い出して
と熱唱。男の行きついた先が悲し過ぎる。
他にも「どうしようもない僕に天使が降りてきた」(タイトルが長い。他にも「明けない夜が来ることはない」「1秒前の君にはもう2度と会えない」、アルバム名で言えば「悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。」などがある。)これがカップル感のもつれを描いた歌詞なのだが、まあ、面白い。
まず歌い出しで
勢い良くしまったドアで 舞いあがった枕の羽根
今夜はついに彼女を怒らせてしまった
この描写だけで「喧嘩が原因で錯乱した部屋」「すでに何度か怒りのニアミスがあった事」「出て行った彼女」という情報が頭に入ってくる。で、彼氏が外に散らばる枕の羽根を頼りに追いかけていくのだが、その描写一つ一つが映像的。
しかもその羽根の事を「天使の羽根」と見立てて
君はきっと どうしようもない 僕に降りてきた天使
と歌うのだが、僕はこの「天使」という過剰な比喩はこんな風に思ってしまう。ほら、駅のホームで喧嘩してるカップルとかいるじゃない。女の子が泣て、男困惑、みたいな。ああいう場面って当人らにしてみたらそれこそドラマや小説のようなワンシーンだけど、通行人等の関係ない人間からしたら「他人事」というか「冷めた目線」だと思うのである。
で、そういう男女の痴話喧嘩の「当人」と「他人」の温度差を表しているフレーズが「天使」のような気がしている。当人らの熱量と主観の入ったドラマである喧嘩を歌いあげたのがこの楽曲なのではないでは、と勝手に思ってる。
じゃあ、この主観が作り上げた当人だけの非日常をどう収束していくのかといえば、このラストの歌詞。
帰ったら部屋の掃除は 僕が全部やるから
一緒に帰ろう…
「掃除」という単語が出てきて日常へと帰っていく。三点リーダーがクールダウンの描写にも見える。しかも直接的な謝罪の言葉は用いない。なにより、冒頭で描写した「喧嘩が原因で錯乱した部屋」の伏線も回収する、という。痺れるぜ。
とまあ、ここまで読んでくれた方にはマッキーの「歌詞」の世界観を、なんとなく分かってもらえたと思うのだが、実はその事を踏まえて今回僕が紹介したかった曲が「pool」という一曲。アルバム「Cicada」に収録されている。
この歌、彼のイメージにあまりない「夏」の歌なのだが、とても好きな曲なので紹介したいと思い今回の記事を書いた。
そもそも「夏」をテーマにした歌というのは
・「おっととっと夏だぜ!」的元気曲
・「なつがくーれば、おもいだすぅー♪」的しっとりバラード
に大きく分類されると思うのだが、この「pool」という曲は「明るいのに切ない」という「The日本の夏」的な作品になっている。
しかも、その「切ない」のパンチが重い!ボディブローセンチメンタル。
歌詞の主な内容は彼女との夏の日のデート。二人でプールに行った事をメインに積極的な「君」と泳ぎの下手な「僕」を描写している。
しかし、サビ前のワンフレーズでその世界観がグルっと変容する。その変容っぷりもAメロやBメロで日常を描写しておいての一押しなので、なかなかフリが効いているのだ。
誰よりも先に飛び込んだ
16の時のガールフレンド
ここで「あ、今までの描写は過去の話なんだ」となって、ここから歌詞の世界観がグァァッと広がっていく。
君にもう一度あいたいな
「僕」の隣に「君」は、もういない!いないのだ!そう、今まで楽しげに歌っていた歌詞はすべて過去の話。回想だった、と。あるきっかけでフッと思い出が甦る事ってあると思う。それは曲だったり、場所だったり、物だったり。
この「pool」は、なにかその時にこぼれる感情のようなものが歌われているような気がする。こぼれた思い出からじんわりと彼女との記憶が広がってく様も切ない。(今で言うエモいなのか、これは。)
毎年僕の夏に咲いてたひまわり
その思い出は通勤電車の中でこぼれたのかもしれない。或いは彼女の腕の中でこぼれたのかもしれない。けれど、もうそれは遠い過去の事で。
おもちゃ屋の軒先に並ぶ花火
小遣いが足りなくて諦めたやつも
今は買えるくらいにはなった
ある程度、「君」と「僕」も年を重ねた、と。
そして2番のサビで出てくるフレーズ。
案外違う名字になっていたりして
この歌の存在は昔から知っていたけれどようやく自分でも共感できる時が来てしまった。「違う名字」という言葉の重さ。思い出は思い出の中で、もう逆行は出来なくて。
あの頃呼んでいた名字だって、もう「君」にはピンと来なくなったのかもしれなくて。
こんな事を書いていたら「君」は「馬鹿じゃないの?」って内心笑うのかもしれないけれど。せめて、もう一度思い出の中じゃない、本当の「君」に会いたいな。なんて。
そして、なんだかそういう男の弱い記憶というのは、時が経つにつれ物語を帯びて、まるでこの「pool」という曲のように「明るさの中に切なさ」を忍ばせるからやっかいで。
本当、槇原敬之という人は男の心象風景を掌握してるなあ、と毎度のように感心してしまう、今日この頃。
最後は、この「pool」の中で最も詩的でもっとも好みだなあと思ったフレーズを紹介してお別れにします。あの頃、僕も本当に止まれば良いと思ってたなあ。
「はやくおいでよ」って 笑う声と水音が
あわてて脱いだシャツに 集まったんだ
時間が止まればいいと思った