銀杏BOYZの『少年少女』が、あの頃の自分を呼び起こしてくれた話。

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 高校生時代、狂ったように峯田和伸の歌声を聴いていた時代があった。思えば、あの十六歳、十七歳、十八歳は何も思うようにいかなくて、親が嫌いで、学校が嫌いで、好きな人が嫌いで、それから自分自身のことも大嫌いだった。松本人志ラーメンズ、それからヨーロッパ企画に卒倒し、現実から逃避するように演劇を行い、小説を書いて過ごした時代。そんなどうしようもなかった青春に、峯田は『光』だった。

 すべての創作物は誰かの何かに影響を及ぼす。銀杏BOYZGOING STEADYの楽曲は、それまでヒットチャートに掲載するようなJポップしか聴いてこなかった自分に、生き方を教えてくれた。

 

『BABY BABY』は、ドキドキと夢のようなロマンスを。

 

『童貞ソー・ヤング』は恋も何もかも上手く行かない自分に泥臭くも真っすぐな気持ちを。

 

援助交際』は純粋無垢だった自分に困惑と熱狂を。

 

『SKOOL KILL』は混沌とした青春時代に更なる混乱を。

 

 そして『夢で逢えたら』は、そのどうしようもなかった人生に生きる希望を。

 

 もしも、あの時、峯田の声が無ければ、と思うような夜がたくさんあって、そんな夜を数えれば数えるほど、彼の作り出した楽曲がBGMのように流れてくる。峯田の歌詞はとにかく優しい。誰の隣でも寄り添ってくれるような魅力にあふれている。

 

 けれど、人はいずれ大人になる。

 どうしようもなかった夜を何度も超えて、人は強くなり、また成長を繰り返す。未熟だった言葉や、情けない行動、そんなものを引き換えに年を重ねて、顔の皺を増やして、謎のローンを作ったりする。

 30歳のある時に、エアーポッツからランダム再生で流れてきた『夢で逢えたら』を耳にしながら、自分は思わず『懐かしいな』と呟いてしまった。

 事件だった。あの頃熱狂していたはずの峯田の歌声が、歌詞が、音楽が、全て『懐かしいメロディ』に変わってしまっていることに自分は気付いてしまったのだ。人生を救ってきた楽曲たちが、ただの青春を懐かしむ道具になってしまっている。

 もう、あの頃のように峯田を聴くことはできない。聴く資格はない。そんな事を考えさせられた。

 

 確かに抜け出したかった。あのどうしようもない青春から一刻も早く。けれど、峯田の言葉に懐かしいと思ってしまうような大人に、果たして自分はなりたかったのだろうか。

 あの夜を何百も何千もくぐり抜けた先にあったのは、そんな風景で、その世界に行くために自分は生きてきたのか。頑張って来たのか。頑張らないで来たのか。

 松本人志がムキムキになって、小林賢太郎が過去のコントで責められて、ヨーロッパ企画が乃木坂の子と共演するようになって、自分が一人暮らしをするようになって。

 そんな、2021年、夏。うだるような暑さから帰宅して、やるせない自問自答を吹き飛ばしながら、部屋着に変えて、晩飯をうつらうつらと口に運んでいた時。

 YOUTUBEの自動再生が懐かしいあの声をパソコンから流してくれた。

 それが銀杏BOYZの『少年少女』。

 

 自分が大好きだった峯田が、銀杏BOYZが、GOING STEADYが、そこにいた。

 自分の心の中に声も出さずに三角座りしていた、『あの頃』の自分が、立ち上がって口ずさんでいる。

 ああ、これだ。歌詞の礫を浴びながら自分は思う。青春の匂い。眩い位の光。

今 目と目があった その瞬間から
ダウンロードされた すべて許された
「ここにいてもいいから」 

  この歌詞を聴いた時に、峯田は青春を通り過ぎてしまった人たちにすら「ここにいてもいいから」と語り掛けているような気がして止まなかった。その優しさが、あの青春時代から自分を救い上げてくれたんだ。

だいすきはだいきらいだよ
愛の意味も知らずに
夕陽あびた世界のはじっこで
手と手をつないだ

  不安定でどうしようもない、けれど愛おしい部分も確かにあったと思える青春時代。自分たちは何を夢見ていたんだろう。何を考えていたんだろう。

2000光年の列車で 悲しみをこえたなら
少年は少女に出逢う
きれいなひとりぼっちたち 善と悪ぜんぶ持って
少年は少女に出逢う

  ひとりぼっちは、これからも続いていく。たとえそれが大人になっても。大人になれなくても。子どものままでも。今、子どもでも。けれど、峯田は、そんなひとりぼっちを掬い上げていく。誰も置いていくことなくもれなく全て。

 そんな不器用さが恥ずかしかったり、もういいよと思ったこともあったけれど、それも何年年十年と突き通していけば芸術になる。『少年少女』はそんな重ねた年季が生み出した傑作だ。胸を突き動かされてしまった。

 

 松本人志がムキムキになって、小林賢太郎が過去のコントで責められて、ヨーロッパ企画が乃木坂の子と共演するようになって、自分が一人暮らしをするようになって。

 だけど峯田は変わらない。変わらない曲と、変わらない気持ちを自分たちに与えてくれる。

 

 30を過ぎた自分の、あの頃を呼び起こす峯田は凄いな。今なら『あの娘は綾波レイが好き』で踊り明かせそうな気分だ。

 峯田、令和になって、こんな素敵な曲を出してくれて、本当にありがとう。

 大好きです。

あの娘は綾波レイが好き

あの娘は綾波レイが好き

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槇原敬之の『pool』の歌詞、「案外違う名字になっていたりして」の殺傷力と切なさの想起について。

 

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 ずっと他人事のように感じていた「結婚」という言葉も31になればいよいよ他人事ではない。しかも昔恋した相手が別の男性と結ばれて名字を代えるというのだから、まあ、女々しいのは重々承知ながら「おめでとう」より「うわあ、いよいよドラマとか漫画でみたヤツだあ…」という気持ちが凄い。式に呼ばれた時はどういう顔をすれば良いのだろう。「笑えば良いと思うよ」か、綾波のごとく。だって人づてに聞いたプロフィール、僕より結婚相手さんの方が上回っているもんなあ。

 と、まあ何年も前の恋をウジウジ語るような私だが、こういった男の弱い部分を武器にして90年代一世風靡したシンガーソングライターがいる。そう、槇原敬之だ。

 

 歌唱力、キャッチなメロディ、どれもマッキーを語る上で外せない要素なのだが注目したいのは「歌詞」。メロディを先に作ってから歌詞を当てはめていくというスタイルが多い中、この人は「詩先」という歌詞→メロディという手法で曲を作ってる。それだけ「歌詞」というものにこだわりがあるということだろう。加えて90年代の頃に発売した楽曲は、どれも男の心象風景を歌っている(特に弱い部分を書かせたら右に出る者はいないくらい)ものだから本当に私小説を読んでいるかのような気持ちになる。マッキーの歌には「物語性」があるのだ。

 

 例えばスマッシュヒットをした「SPY

だけど 信じてる 信じてる 

が印象的な歌。

 歌の内容を要約すると「街で偶然見かけた恋人をSPYみたいに追いかけてたら、知らない男と出会ってキスしてて、うわあ」という内容。(内容を見ただけでもよく、この設定で1曲書こうと考えたなあ、と思う)

 この曲、2番のサビが凄い。↑で書いた箇所に呼応するのだが

しゃれになんないよ なんないよ

と続く。

 この「しゃれになんないよ」というフレーズ!そして「なんないよ」のリフレイン!
男の絶望感と、まぬけさを一度に説明している絶品なフレーズだと思う。こそこそ隠れながら「しゃれになんないよ」ですからね。「なーんないよ」ですから。しかも1番で「信じてる」と歌っている部分に「しゃれになんないよ」を当てはめる意地悪さ!

 最後のサビでは

両腕がじんと熱くなる位 抱きしめた強さ
君の身体に アザのように残ればいい
そしていつか思い出して

と熱唱。男の行きついた先が悲し過ぎる。

 

 他にも「どうしようもない僕に天使が降りてきた」(タイトルが長い。他にも「明けない夜が来ることはない」「1秒前の君にはもう2度と会えない」、アルバム名で言えば「悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。」などがある。)これがカップル感のもつれを描いた歌詞なのだが、まあ、面白い。

 まず歌い出しで

勢い良くしまったドアで 舞いあがった枕の羽根
今夜はついに彼女を怒らせてしまった

 この描写だけで「喧嘩が原因で錯乱した部屋」「すでに何度か怒りのニアミスがあった事」「出て行った彼女」という情報が頭に入ってくる。で、彼氏が外に散らばる枕の羽根を頼りに追いかけていくのだが、その描写一つ一つが映像的。

 しかもその羽根の事を「天使の羽根」と見立てて

君はきっと どうしようもない 僕に降りてきた天使

と歌うのだが、僕はこの「天使」という過剰な比喩はこんな風に思ってしまう。ほら、駅のホームで喧嘩してるカップルとかいるじゃない。女の子が泣て、男困惑、みたいな。ああいう場面って当人らにしてみたらそれこそドラマや小説のようなワンシーンだけど、通行人等の関係ない人間からしたら「他人事」というか「冷めた目線」だと思うのである。

 で、そういう男女の痴話喧嘩の「当人」と「他人」の温度差を表しているフレーズが「天使」のような気がしている。当人らの熱量と主観の入ったドラマである喧嘩を歌いあげたのがこの楽曲なのではないでは、と勝手に思ってる。

 じゃあ、この主観が作り上げた当人だけの非日常をどう収束していくのかといえば、このラストの歌詞。

帰ったら部屋の掃除は 僕が全部やるから
一緒に帰ろう…

「掃除」という単語が出てきて日常へと帰っていく。三点リーダーがクールダウンの描写にも見える。しかも直接的な謝罪の言葉は用いない。なにより、冒頭で描写した「喧嘩が原因で錯乱した部屋」の伏線も回収する、という。痺れるぜ。

 
 とまあ、ここまで読んでくれた方にはマッキーの「歌詞」の世界観を、なんとなく分かってもらえたと思うのだが、実はその事を踏まえて今回僕が紹介したかった曲が「pool」という一曲。アルバム「Cicada」に収録されている。

pool

pool

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 この歌、彼のイメージにあまりない「夏」の歌なのだが、とても好きな曲なので紹介したいと思い今回の記事を書いた。

 そもそも「夏」をテーマにした歌というのは
・「おっととっと夏だぜ!」的元気曲
・「なつがくーれば、おもいだすぅー♪」的しっとりバラード
に大きく分類されると思うのだが、この「pool」という曲は「明るいのに切ない」という「The日本の夏」的な作品になっている。

 しかも、その「切ない」のパンチが重い!ボディブローセンチメンタル。

 歌詞の主な内容は彼女との夏の日のデート。二人でプールに行った事をメインに積極的な「君」と泳ぎの下手な「僕」を描写している。 

 しかし、サビ前のワンフレーズでその世界観がグルっと変容する。その変容っぷりもAメロやBメロで日常を描写しておいての一押しなので、なかなかフリが効いているのだ。

誰よりも先に飛び込んだ
16の時のガールフレンド

 ここで「あ、今までの描写は過去の話なんだ」となって、ここから歌詞の世界観がグァァッと広がっていく。

君にもう一度あいたいな

 「僕」の隣に「君」は、もういない!いないのだ!そう、今まで楽しげに歌っていた歌詞はすべて過去の話。回想だった、と。あるきっかけでフッと思い出が甦る事ってあると思う。それは曲だったり、場所だったり、物だったり。

 この「pool」は、なにかその時にこぼれる感情のようなものが歌われているような気がする。こぼれた思い出からじんわりと彼女との記憶が広がってく様も切ない。(今で言うエモいなのか、これは。)

毎年僕の夏に咲いてたひまわり

 その思い出は通勤電車の中でこぼれたのかもしれない。或いは彼女の腕の中でこぼれたのかもしれない。けれど、もうそれは遠い過去の事で。

おもちゃ屋の軒先に並ぶ花火

小遣いが足りなくて諦めたやつも

今は買えるくらいにはなった

ある程度、「君」と「僕」も年を重ねた、と。

 そして2番のサビで出てくるフレーズ。

案外違う名字になっていたりして

 この歌の存在は昔から知っていたけれどようやく自分でも共感できる時が来てしまった。「違う名字」という言葉の重さ。思い出は思い出の中で、もう逆行は出来なくて。
あの頃呼んでいた名字だって、もう「君」にはピンと来なくなったのかもしれなくて。
こんな事を書いていたら「君」は「馬鹿じゃないの?」って内心笑うのかもしれないけれど。せめて、もう一度思い出の中じゃない、本当の「君」に会いたいな。なんて。

 そして、なんだかそういう男の弱い記憶というのは、時が経つにつれ物語を帯びて、まるでこの「pool」という曲のように「明るさの中に切なさ」を忍ばせるからやっかいで。

 本当、槇原敬之という人は男の心象風景を掌握してるなあ、と毎度のように感心してしまう、今日この頃。


 最後は、この「pool」の中で最も詩的でもっとも好みだなあと思ったフレーズを紹介してお別れにします。あの頃、僕も本当に止まれば良いと思ってたなあ。

「はやくおいでよ」って 笑う声と水音が
あわてて脱いだシャツに 集まったんだ
時間が止まればいいと思った

 

浮気って言葉を包み込むくらいのウルトラ陽キャポップバンド、sumika。

 

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 『sumika』は凄い。本当に凄い。もっと評価されていい。これは本当の話。もっとMステに出演してもいいし、もっと国民的なバンドになっても良いと思う。私はsumikaの曲を聴くたびに思うのだ。あそこまでポップへ真摯に向き合っているバンドもそうそういない。斜に構えてのポップでもなく、芯を捉えて真っ向勝負のポップさを逃げずに突き通している。その姿勢には思わず背筋が伸びてしまう。sumikaを聞くときは背筋がピンピンになってしまうのは私だけだろうか。

 

 例えば、アニメ映画版『君の膵臓を食べたい』の主題歌。爽やかなメロディに真っすぐな歌詞が響く。sumikaにポカリかカルピスウォーターの依頼が来てないとか嘘だろ?

 

 例えばアニメ「美少年探偵団」のオープニングテーマ。自分たちの楽しくて幸せで思わず歌ったり踊ったりしてしまう色をこれでもかと出し切っている曲。アニメとの相性も◎である。

 

 そう、例えるならばsumikaの曲は完璧な陽キャタイプなのだ。しかも、陰キャにもしっかり優しいタイプの陽キャ。最強の陽キャである。一番ズルいタイプである。

 

 さて、そんなsumikaのポップさを語るうえで避けられないのが、この代表曲『Lovers』である。

 TSUTAYAのCDレンタルコーナーで流れていて一目惚れならぬ一聴き惚れしたのが最初の出会い。そこからsumikaのことを知っていくのだが、「え、sumikaってどんな曲歌ってるの?」と聞かれたら名刺代わりに出す一曲。とにかく聞いて欲しい。このポップさこそがsumika

 

 さて、ポップな曲というのは意外なところにも響くものである。私の友だちに「ごめん別の人を好きになっちゃったの」パターンで振られた男がいた。その男がこのsumikaのLoversが好きだと話すのだ。「この曲の歌詞に共感する」と。凄すぎるな、sumika陽キャパワー、と言いたいところだが歌詞に共感となると、また別の話のように思える。

 

 そこで気になる私は歌詞について調べてみることにした。

涙の訳を整理したくて
B5の紙に書き出してみたんだ
辛さ悲しさ感情いろいろ
滲んだインクの先に僕が透けていた

  なるほど、爽やかなメロディや歌声に反して、割と後ろ向きな感情を歌っている。更に歌詞を見ていくと。 

口約束の結婚をした17歳の秋には
わきめふらせる事が怖かったんだ
でも今は違うらしい
たくさん比べてほしい
そんで何百万の選択肢から選んでほしい

  この辺りで「どうやら普通のラブソングとは少し違う」ということが分かってくる。そして、それを踏まえたうえでのサビの歌詞。

(ねえ)ねえ浮気して
(ねえ)ねえ余所見して
ずっとずっと離れぬように
(ねえ)ねえふらついて
(ねえ)ねえゆらめいて
ずっとずっと離れぬように

  ああ、これは、友人も共感するのかもなあ、と思わず感嘆が漏れた。君のこと大好きチュチュチュみたいな一途な愛を歌う昨今の中に、浮気やら余所見やら危なげなワードが散りばめられているのだ。だが昭和に良く見られた「三年目の浮気ぐらーい多めに見てよー」的な艶めかしさもなく、カラっと明るく歌い上げている。

 これってめちゃくちゃ凄いことをしているのではないだろうか。ポップさで隠して浮気やらなんやらを歌い上げる、そして誰もが口ずさめるような作品に作りあげるというのは、そんなマイナスの言葉すら呑みこむくらいの大衆性がなければ成り立たない。

 更に、このサビの面白いところが「浮気して」や「余所見して」と言っている癖に「ずっとずっと離れぬのように」と相反する言葉を紡ぐところである。この浮気や余所見という負のワードによって、はなれないで欲しいと言う想いが、くっきりと輪郭を表すのだ。

 そしてサビは最後に

最後の最後の最後にはお願いこっち向いて
(お願いこっち向いて)
こっち向いて笑って欲しいのです
ずっとずっと離れぬように

 で結ばれる。

 浮気とか余所見とか出しておいて、最後はこっちを見てほしいと歌う。なんという歪な、けれど真っすぐなラブソングだろうか。これがきちんとポップに受け入れられるように作られていることがまず凄すぎるし、この歌で大阪城ホールが湧いているのも本当に凄い。最強の陽キャすぎる。

 

 そういえば、友人は未練たらたらで、かつての恋人が戻ってくることを祈っていたらしい。

最後の最後に(あなた朽ち果てるまで)

愛しぬいていきたいと思うのです

  なかなか彼のことを考えると、この歌詞も胸が痛むものである。

 

 という訳で浮気って言葉を包み込むくらいのウルトラ陽キャポップのsumikaは本当に誰でも親しめるくらいのバンドだと思うので、まだ聞いたことのない人がいれば是非一度ご視聴ください。

 歌詞も含めて、めちゃくちゃ良いです。

 

(といいつつ、私がsumikaの中で一番好きなのは、こういうダウナーな曲だったりします。明るいキャラが時折見せる陰の部分。惚れてまうやろー!)

 

 

Lovers

Lovers

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『さとうもか』の「Lukewarm」のサビ「恋をすると人間になっちゃうって ママの言ってた事は本当だね」って凄い歌詞!共感とインパクトじゃん!でも待って!「Lukewarm」ってぬるいって意味だよね。……どういうこと?

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 やはり歌詞は『共感』と『インパクト』が大切だと思う。共感に振り切るのであれば、人生における様々なあるあるを音に乗せれば心に響く。インパクトに振り切るであれば、それこそ意味のない言葉の羅列でも気持ちよく聞ける。

 ただ私は、この『共感』と『インパクト』を併せ持つ歌詞が最強だと信じて疑わない。しっかりと届く人には届いて、けれど届かない人にもインパクトが残る言葉こそが耳ごこちを掌握すると信じている。

 そう言った意味で『さとうもか』「Lukewarm」はサビの『共感』と『インパクト』が、グレネード弾のように心や脳に炸裂する。やんわりとふんわりと歌いながら、なんと、耳に残るフレーズをぶち抜いてくるのだろうか。

 というか普通に良い曲。ラスサビで転調するのも良き。

 

 

恋をすると人間になっちゃうって

ママの言ってた事は本当だね

 

 初めてサビを聞いた時に、すぐに心を掴まれた事を覚えている。

 恋をすることを色々な言葉で人は例える訳だけど(例えば『槇原敬之』の『モンタージュ』なら「自分の耳が赤くなっていく音を聞いた」など)、「人間になっちゃう」というフレーズの共感力はやられたと感じた。とても寓話的なのになぜか「分かって」しまう言葉のはめ方なのだ。

 更にこの後、ママの言ってた事は~のくだりで、ガーリッシュな感じを出してくるのも良い意味でずるい。ママという言葉は十代二十代だったら共感の代名詞として響く言葉だからだ。巧みな言葉のチョイスである。

 サビ前の『とぅるるるるーん♪』も魔法感をだしており『人間になっちゃう』という歌詞を引き立てていて非常に素晴らしい。

 

 しかし、である。

 サビのインパクトだけを見ると『恋』に落ちた子のすてきな歌と思ってしまう本作、タイトルが『Lukewarm』、日本語にすると『ぬるい』という題なのだ。妙である。このサビの様子からは、ぬるさを感じられない。

 もう少し歌詞を覗く。

甘い時間はぬるいお風呂のよう
動けなくなって戻れなくなるだけ

 更に別の場面では。 

淡い時間はクランベリージュースのよう
氷は溶けちゃってもう美味しくないわ

 恋のすばらしさ、というよりは。

こんな時もあなたの隣
生きる意味を見つめてたの
同じような気持ちなんてきっと無いのね

 なんか「あーあ、恋しちゃったなあ……」という感じではないだろうか。

 

 『魔法のような恋』ではなく、どちらかと言えば続いていく『日常としての恋』を描いているように感じてしまう。魔法にかけられたようなサビの歌詞とは対照的に、ぬるくなった恋を描き続けているように聴こえてならない。これはなかなか一筋縄ではない曲である。

 さて、YouTubeのコメント欄を見ると「恋したくなりましたー!」とか「はあ、人間になって数か月目ですー」というような主旨のことが書かれていて、恋に恋しているこの子たち、サビの感じだけでコメント書いているくない?、と感じてしまったりもする。確かに、そういう風に取れる歌詞にもなっているのだ。ただ、恋(キラキラ)ならあえて『ぬるい』なんてタイトルつけないような気もして。なんか悔しいな、さとうもかがニタリ顔でこっちを見てる気持ちになる。

 真意は本人にしか分からないが、もし、そのぬるさを歌にしてるのだとすると、さとうもかの手腕たるやえげつない。片思い辛いー、恋実ったやったー、恋楽しい幸せ―、恋すれちがい辛いー、恋終わる悲しいー、なら分かるが、このぬるくなった恋を、聞いている人に「いいなあ」と届けるように作品としてパッケージングしているのである。普通なら、そこをラブソングにする必要はない。なぜなら分かり易く感情の起伏がある時の方が、曲として創作はしやすいのだから。

 ここが、さとうもかの才能の凄いところだと思う。「そこを切り取るのかあ」という部分のチョイス。さらに、その切り取り方も、TikTokを楽しむような十代の子に伝わるような、インパクトと共感を生む作り方をしてるのが、もう完全降伏という感じ。

 

 っていうか!

 いや、こんな才能ある人なんだから!

 もっともっと売れるべきだろ!有名になるべきだろ!

 あの歌詞一発で!CD大賞的なのに選ばれても!よくない!?いや、マジで!!

 この人マジで歌詞も声も曲のシティポップ感も全部最高だから!!

 という訳で残りは曲の紹介をします。 

 

(さとうもかの他の曲①.こちらは完全に失恋の歌だが、歌詞の切れ味が本当にエグい。)

背伸びしてばかりだった
あなたの横にいると
痛みも何より綺麗に見えたの
私のものにしたくて靴擦れした気持ちと
目を合わせられない

 

(さとうもかの他の曲➁.こちらは最高の夏の恋の歌。あー、こんな夏過ごしてー、こんな恋してー)

待ち焦がれてた金曜の夜
朝からずっと私浮かれているの
久しぶり待ち合わせ 夜中のコンビニ

嬉しくてほんの少しおしゃべりになっちゃうね
夜更かしして映画でも借りようよ
とびきりのやつ!

 

 ちなみに、この曲はTikTokでも流行っている曲らしい。好き嫌いは置いといて、確かにあのSNS、歌詞の『インパクト』が、とても映(ば)えると思う。(TikTokで興味を持った子が、しっかりと原曲まで辿り着いて、しっかり聞いてくれていれば嬉しい) 

 しかし、凄い歌詞だよなあ。こんな言葉を作れるようになりたいと思う。 

 

Lukewarm

Lukewarm

  • さとうもか
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 僕は初めて聞いた時は、魔女の歌と勝手に思ってました。

 

 

令和3年に「カードキャプターさくらは俺の嫁!」とか言ってるやつはいくら何でもアップデートされてなさすぎワロリンチョワロリンソワカ

 

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かつてネットスラングで『○○は俺の嫁!』という言葉があった。○○には二次元、いわゆるアニメのキャラクターが入る。つまり、このキャラクターが好きなんだよなあ、という表現方法の一つとして『ハルヒ俺の嫁!』などと宣言していたのだ。

しかし時代は変わり今は令和3年。『○○は俺の嫁!』なんて言葉は死語。というか、何を勝手に婚姻届けも本人の意思もないまま嫁にしてくれているのだ、という話である。親に挨拶へ行け。お互いの年収を公開しあってからにしろ。あと過去のいろいろな関係は変な体のあれそれとかも含めて断ち切れ。墓参りで祖先に報告しろ、涼宮ハルヒさんと結婚しますって。ハルヒキョン、結婚するわよ!」じゃないのである。そんなSS、昔、埋立地関西国際空港が出来るくらい沢山作られて捨てられていったのだろうなあ。

で、これから書き記すのは、そんな時代に感じた大きな違和感の話だ。

 

「さくらは俺の嫁!」

この「さくら」という名前が意味する存在は人によって異なるだろう。ストリートファイターの「さくら」かもしれないし、サクラ大戦の「さくら」かもしれないし、或いはケツメイシの「さくら」かもしれない。だが私にとって「さくら」と言えば彼女一択なのである。

そう、「カードキャプターさくら」の「さくら」だ。

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ばりばり幼稚園児くらいの妹が見てた世代の私にとって、さくらと言えば彼女しかいない。詳細はwikiを参照してほしいが彼女の「絶対大丈夫だよ」という言葉に何度人生を救われただろう。

そんなさくらちゃんだが、当時から熱狂的なファンが多いことで知られていた。それこそ、関西国際空港が出来るほどに「さくらは俺の嫁」と言われ続けてたのだ。

しかし、その言葉を見たり聞いたりするたびに私は、こんなことを思っていた。

「いや、さくらは、お前の嫁ではない」と。「絶対に違う」と。

特に、この20年近く経ってる今、令和3年に、まだこれを言ってる人がいるとしたら、いくら何でもアップデートがされてなさすぎると思ってしまう。まあ、私は、このスラングが全盛期の頃から、さくらちゃんにこの言葉を使う事に対しては敵対心をむき出しにしていたのだが。(私がさくらちゃんの嫁とかいうしょうもない理由でもない)

 

え?

何?

どうしてかって? 

……あのなあ。

あのなあ!

カードキャプターさくら小狼くんの嫁やろがいっ!

いや!

マジで!

これは!

マジで!!!

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俳句講座:夏の季語「乾のデータテニス」活用術

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 日照りの長さも伸び、太陽の暑さも増してきた今日このごろ、如何お過ごしでしょうか。季節の変わり目は、あらゆる事象が俳句の種ととなり、芽となる時期です。少し気持ちの模様替えをするために外へ出かけてみるのも一つの手段かもしれませんね。

 さて、先週は夏の季語「青蛙」について解説しましたが、本日は夏の季語の中でも特に人気の高い「乾のデータテニス」を紐解いてゆこうと思います。

 

本日のテーマ

季語:乾のデータテニス(夏)

 

 「乾のデータテニス」は夏の情景を表すのに適した季語の一つと言えるでしょう。乾のデータテニスの持つ奥行きや聞き心地だけで、あの夏の懐かしい様子を思い浮かべるのは私だけでしょうか。乾のデータテニスは俳句に入れ込んだだけでも夏が想起される言葉で、ある意味反則的でもあるのですが、乾なしに夏の句を語るのは俳句を齧る身としては少し恥ずかしいことなので、あえて語らせて頂きたく思います。

 先日、ブレバトで梅沢富男が「乾のデータテニス」を入れた句を読んでいたのをご存知でしょうか。梅沢氏はあろうことが「乾のテニスデータ」とデータとテニスを入れ替えた一句を披露していたのです。私はブラウン管の向こうにいる梅沢氏に「なんと」と思わず呟いてしまいました。それでは、「データ」の「テニス」ではなく、「テニス」の「データ」になってしまいます。乾にとってデータがテニスであることが重要であるにも関わらず、テニスがデータであるかのように梅沢氏は捉えてしまったのですね。やはり俳優だからと言って持て囃すことは、そのような弊害も生み出すことが分かりました。乾のテニスを馬鹿にすることは私が許しません。

 前置きが長くなってしまいました。それでは、本日は「乾のデータテニス」を使った俳句を紹介していきたいと思います。

 

俳句:あさぼらけ乾のデータテニスかな

解説:夜明けの日の光に馴染むような乾の姿が眼鏡の反射と共に浮かび上がってくるようですね。

 

俳句:たらちねの乾のデータテニス母

解説:こちらは短歌の枕詞を使った大胆な作品です。乾のデータテニスのようにすべてを母は娘や息子のことを網羅しているんだ、というメッセージが浮かび上がってくるようです。

 

俳句:見渡せば乾のデータテニスなり

解説:見渡せば一面の乾。そこでおそらくあなたは気付くことになるでしょう。「ああ、私は今、データテニスの術中の中なのだ」と。種田山頭火の「咳をしても一人」を彷彿とさせます。

 

俳句:まあ見てな乾のデータテニスをな!

解説:エクスクラメーションマークが夢や希望を表現している一句ですね。ですが、我々は知っています。乾のデータテニスに余計な期待を持たない方が良いことを。

 

俳句:もういいよ乾のデータテニスとか

解説:誰もが一度は経験する乾に対する反抗的な態度。それを上手に切り取っている珠玉の一句です。素晴らしい。また、俳諧に対するアンチテーゼともとれる奥深い作品に仕上がっております。

 

俳句:絶対に!乾のデータテニスなの!!

解説:絶対にそんなシチュエーションは存在しないのですが、それでも句として成立するのは乾のデータテニスという言葉が持つイリュージョンなのでしょうか。海道のブーメランスネークでも絶対大丈夫なはずです、その状況は。落ち着いてください。

 

俳句:すぐそばに乾のデータテニスです

解説:コンビニのATMみたいに身近にあるということでしょうか。別に大丈夫ですね。

 

俳句:わたしには乾のデータテニスだけ

解説:絶対にそんなことはないです。

 

俳句:乾やん。乾のデータテニスやん。

解説:「え、ちょっと、まって。嘘やろ。ここ鳥取やで?鳥取で、会う?やば。めっちゃ砂丘やで!」みたいな。

 

俳句:乾より…乾のデータテニスより……

解説:「あなたが好きです」みたいなことでしょうか。

 

俳句:うわあああ乾のデータテニスうう

解説:断末魔です。

 

 

 如何だったでしょうか。乾のデータテニスのことがより愛おしく感じられる講座だったのではないでしょうか。以上で本日の講座は終了します。

 次回は秋の季語「クラッシュバンディクー」活用術でお会いしましょう。

 さよなら。