槇原敬之『どんなときも。』の仄かな暗さと確かな歌詞
あえて敬称略で書かせて貰う。槇原敬之は凄い。本当に凄い。洋楽のキング・オブ・ポップがマイケル・ジャクソンだとすれば、日本でのキング・オブ・ポップの称号は槇原敬之に決定で良いと思う。それほどに、槇原敬之は過小評価されているし、あの立ち位置で今も戦い続けている姿勢に僕は心を奪われ続ける。
槇原敬之の素晴らしさは「歌声」も「メロディ」も外せないが、その幹に「歌詞の言葉」というものがある。「歌声」や「メロディ」で何十年と親しまれてきた人たちはいたが、「歌詞」の音楽性で戦い続けてきたのは日本で言えば松任谷由実くらいなのではないだろうか。
例えばSMAPに楽曲提供された名曲「世界に一つだけの花」は未だに諸学校などで歌われ続ける普遍的なメッセージ性を伴っているし、「もう恋なんてしない」はリリースから何十年と経った今でも恋人を失った気持ちを細やかな情景描写を織り交ぜながら歌うことによって失恋曲の代表曲として挙がる。
言葉を歌い続けるという意味で、未だに第一線を貼っている彼について、僕は化物だと思う。
製鉄所のコンビナートは 赤と白の市松模様
君に見せるつもりだった ロケットの模型と同じで
もう君にも 見せることもないし この道も二人じゃ通らない
話もして キスもしたけど 出会わなかった二人
槇原敬之『PENGUIN』の歌いだし。もはや、歌詞が『文学』。『製鉄所のコンビナート』から『赤と白の市松模様』なんて比喩表現に繋げてるってどんなセンスをしているのか。二行目の『君に見せるつもりだった ロケットの模型と同じで』がラブソングという点では少し共感からはみ出ているのも強烈。
君はナポレオンフィッシュの
水槽にへばりついて
何度呼んでも 降り返ってくれない
槇原敬之『手をつないで帰ろ』は冒頭の『ナポレオンフィッシュ』という強烈な単語から始まり、その後に描かれるのは水槽にへばりつく何度読んでも振り返らない恋人の存在。
ほかの女の子に
ちょっと見とれてただけなのに
「ちょっとじゃないよ」って言うために
一回振り返っただけ
特に90年代に作られた珠玉のラブソングたちは掌編小説と言ってもおかしくない。
なぁ こっちむいてーな
なぁ 機嫌なおしてーな
僕らの日曜日は夏休みほど長くない
関西弁と、『僕らの日曜日は夏休みほど長くない』ここの歌詞が完璧すぎる。
そんな槇原敬之の代表曲と言えば『どんなときも。』。応援ソングとして圧倒的な地位を確立しているが、その歌詞の、そこはかとない仄かな暗さを、ご存知だろうか。
どんなときもどんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き!」と
言えるきもち抱きしめてたい
この歌詞を是非注目して戴きたい。言えるきもちを「抱きしめる」のではなく、まして「話す」でもなく、「抱きしめていたい」。そう、「いたい」と歌うのである。
かつて、この楽曲が発売された時代はいわゆる『愛は勝つ』や『それが大事』など応援ソングが流行していた時代であり、『どんなときも。』も、その流れの中でヒットした楽曲であることは間違いないのだが、応援歌にしては歌詞に登場する言葉に自信が、あまり無さそうだ。
『絶対』や『必ず』や『四六時中』ではなく『どんなときも』と二回繰り返す。自分に言い聞かせているような様子すら感じられる。
心配ないからね 君の想いが
誰かに届く 明日がきっとある
KAN『愛は勝つ』の歌いだし
負けないこと
投げ出さないこと
逃げださないこと
信じぬくこと
大事MANブラザーズバンド『それが大事』の歌いだし。
僕の背中は自分が思うより正直かい?
そして『どんなときも。』の歌いだし。スタートが負極。正直かい?とクエスチョンマークで聞く自信の無さ。応援歌としては少し異端である。
誰かに聞かなきゃ不安になってしまうよ
『どんなときも。』は更に、このような歌詞で続く。未だ負極の中。応援歌で自ら『不安になってしまう』って言うことの凄み。応援歌の引き出しには似つかわしくない単語ばかりが並ぶ。
あの泥だらけのスニーカーじゃおいこせないのは
電車でも時間でもなく 僕かもしれないけど
もしもほかの誰かを知らずに傷つけても
絶対譲れない夢が僕にはあるよ
ビルの間窮屈そうに
ちてゆく夕陽に 焦る気持ちとかしていこう
こう並べると、歌詞の仄かな暗さが際立つ。しかし、この『どんなときも。』は今でも愛される応援歌。人は、なぜこの、苦みの伴う言葉に励まされ続けるのだろう。ここに僕は歌詞という音楽性で未だ第一線を槇原敬之が貼り続ける理由があると思うのだ。
かつて同時期に流行った歌詞たちは、力強い言葉で聴く者たちを奮い立たせた。もちろんそれは時流の一つであり、未だ応援歌として一定の地位を築きあげている理由に他ならない。しかし中には強すぎる言葉が「自分には合わない」「少し違う」と思う人たちもいたのではないだろうか。
そこに来て、この「どんなときも。」の、仄かな暗さ、後ろ向きの歌詞は応援歌として『上』からではなく、同じ目線に、あえて立って励ますような、身近さがあったのではないか。大袈裟に飾った言葉ではなく、少し真実に近い情景にこそ、人は励まされる。本当に自分のこと、或いは自分に似た誰かのことを歌い続けている、そんな共感が、この曲をヒットに導いたのだと僕は思う。
ポップスという音楽は、特に日常との親和性が高い。まるで自分たちの生活の中で息をするように存在する音楽たちだ。その中で槇原敬之の歌詞は、生活の一部を切り取るような言葉の選択が多く、まるで生活に根付くように僕たちに寄り添う。
しかし、それと同時に、切り取った風景を綺麗な額縁に飾るのも、槇原敬之の歌詞が巧みな部分だ。聞いた者の耳に残るフレーズや表現技法でポップスを主張の強いものたちに変える。『どんなときも』というフレーズを二回繰り返したり、『もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対』という否定をまた否定する強烈さなど、挙げればきりがない。
そこには、ポップスの名手としての、槇原敬之の確かな歌詞の力が存在しているに違いない。
槇原敬之は1966 QUARTET×槇原敬之「Abbey Road Sonata」対談 (4/5) - 音楽ナタリー 特集・インタビューでこのように語っている。
詞は書く時間はつらくてつらくて……!
(中略)
めちゃくちゃしんどいよ、もう本当に。半泣きですよいつも。
(中略)
いや、好きですけど。鍛錬する苦しみとはまた違って、自分の中で混乱してくるんですよね。自分の欲と、書きたいこととがすごくせめぎ合うんですよ。欲というのは、「『この詞の表現いいですね』って言われたい」みたいな気持ちもあるし
市民の視点に立って、苦しみながらも、描かれ続ける歌詞。
そこには、決しておごり高ぶらない、ポップスの王としての姿が垣間見れるのだ。